見ている人を華やかで幸せな気持ちにしてくれる花。日本では慶事に花を贈り、祝福と応援の気持ちを表す文化が根付いています。
かつてはカラフルな造花で形作られた大型の花輪が店頭に並ぶ風景がよく見られましたが、近年は生花が飾られるお店も多い模様。中でも白く大きな花が咲き誇る胡蝶蘭が人気です。
さいたま市に農園を構える「黒臼洋蘭園」は、今年で創業39年を迎える関東最大級の胡蝶蘭専門農園です。美しい胡蝶蘭はどのような手順で人々の手に届くのか。今回は繁忙期である4月頭に密着。前編では、その一年で最も忙しい一日をレポートします。
そもそも「胡蝶蘭」とは?
突然ですが、みなさんは胡蝶蘭とはどのような花なのかご存じでしょうか?「鉢植えに白い花がたくさん並んでる豪華そうなやつ」「なんか高そう」そんなイメージを持っているだけで、実際に胡蝶蘭について考えたことがない方がほとんどなのではないでしょうか。
胡蝶蘭がどのような花なのかを知らなければ密着の意味が無い。胡蝶蘭のいろはを教えていただくため、いきなり黒臼洋蘭園の黒臼秀之社長にお話を伺いました。
創業社長の黒臼秀之社長。20歳から胡蝶蘭一筋!
「胡蝶蘭は学術名を『ファレノプシス』といいます。”蛾のような“という意味がありますが、華僑の方々が『まるで蝶が止まっているようだね』と評価したことから胡蝶蘭という和名が生まれています」
確かに蛾よりは華やかな蝶のイメージがぴったり。涼やかさすら感じる凜とした出で立ちは、さぞかし涼しい地域で育まれたものなのではないでしょうか。
「胡蝶蘭の原産国は東南アジアです。インドネシア、タイ、フィリピン、そして台湾。小さな花をつける東洋蘭や春蘭は寒さに強いんですが、胡蝶蘭は赤道付近の暑い国でしか育たないんです」
並ぶのはめちゃくちゃ暑い国の名前ばかり。うっすらとエキゾチックな雰囲気を感じられたのも納得です。しかし、それほど暑い環境でないと育たないのであれば、寒暖差が激しい日本では育てられないのでは……?
「昔は国内で一から育てていましたが、今はもっぱら輸入です。胡蝶蘭は種から育てるには約5年ほどの時間がかかります。ウチは台湾から毎週5,000株の苗を輸入し、最後の1年を温室内でしっかり温度管理しながら栽培しています」
台湾から輸入していたとは驚きです。黒臼社長いわく、台湾における胡蝶蘭は庭木のような感覚の花だそう。一般家庭で育てられるほど身近な存在であり、栽培のノウハウも広く行き渡っているそうです。
しかし!栽培手法が確立されているとはいえ、相手は生き物。まるで統一された規格があるかのように花の大きさが揃った胡蝶蘭を量産するのは容易ではないはず。さぞかし裏では表に出る何倍もの胡蝶蘭が犠牲になってしまっているのではないのでしょうか。
「昔はバラバラでしたが、今はバイオテクノロジー技術により種のクローンが作れるようになったんですよ。生ものですが食べ物ではないので、技術の参入が早かったんですね。見た目が良くて寒さに強いように品種改良された種が安定して作られるので、安定した品質の胡蝶蘭を育てることができます」
まさかのクローン技術。SFの世界でしか耳にしないような言葉が、こんな身近にあったとは……。当然クローンは同じものをコピーするだけですので、今も品種改良のための交配は行われているそう。今後さらに改良が進めば、日本のような気候にもビクともしない品種が誕生するかもしれません。
胡蝶蘭の繁忙期とは?
繁忙期は3月中旬~4月初旬。通常の2倍程度の株数が出荷される
お祝い事に欠かせない存在である胡蝶蘭。シーズンによってある程度需要に波があり、最も忙しい繁忙期は3月中旬~4月初旬に来るそうです。この期間中に発送する胡蝶蘭の株数は実に3万株!入学や卒業、入社、転勤、役員就任といったイベントが集中する結果とのこと。社員の定時が通常8:30~17:30のところ、この期間中は連日23時過ぎまで勤務。特に集中する3月最終週には、パートさんも夜遅くまで勤務されるそうです。
ちなみに平常時は毎月約15,000株を発送。年間の総発送数は20万株ほどになるそうです。「あれ?繁忙期が通常の5倍とかになるんじゃないの?」と思った方もいるかもしれませんが、実は胡蝶蘭の需要は一年を通して常にあるそう。寒さ・暑さがピークを迎える2月・8月はやや減りますが、その他の月は母の日などのイベントで需要あり。6月の株主総会に9月・10月の半期決算と、会社関連の注文が殺到するそうです。
その上、選挙のような不定期かつ大規模な注文も突発的に発生するため、常に在庫の準備は整えておくとのこと。「最近はフラワーバレンタインなんていうイベントもあるので、一年の間に山はたくさんあるんですよ」と言うほど、いつの間にか胡蝶蘭は我々の生活のあらゆるシーンに深く関わっているようです。
最初の戦場は受付から
胡蝶蘭の概要をお伺いしたところで、生産現場を見学。その前に、お客様からの注文を受け付けるバックヤードを見せていただきました。
膨大な量の注文情報を整理するバックヤード。電話が鳴り続ける日も……。
部屋に入った瞬間、異様な空気に圧倒されます。それもそのはず、日に1,000件を越えるという注文を一気に処理するのがこの部屋。受けた注文はプリントアウトされ……
書類!
書類!
と、書類の山として積み重なっていきます。
電話回線は常に真っ赤!
繁忙期中は注文だけでなく、問い合わせの電話も通常よりも倍増。6回線用意しているという電話回線もすべて埋まります。
生産から出荷。工程は多いぞ!
実際に出荷するまでの現場をご案内いただくのは黒臼一聡常務取締役。黒臼常務によれば、台湾から輸入した苗が花を付けるまで4ヵ月~半年ほど。花芽がついた頃から、出荷に向けた工程が始まるそうです。
【「組み」と「曲げ」】
「曲げ」で形が整った胡蝶蘭を3~5株ごとに「組み」。
我々が知る胡蝶蘭のイメージは、美しい茎のカーブによって作り出されているといっても過言ではありません。花が咲き始める前にあらかじめ決められた支柱をかけ、茎の角度と形を変える「曲げ」と呼ばれる作業により、胡蝶蘭が最も美しく見えるように花の並びを整えていきます。
ちなみに支柱を立てないと、花が勝手に太陽の方向を向いてしまうそう。また「花の向きが揃うようにコントロールしておくと、配送もしやすいんですよね」という実利的な理由もあるそうです。なるほど。
なお、贈答用の胡蝶蘭は一株単位で購入されるのは珍しく、多くは3~5株で構成された鉢植えで送られます。一見簡単に組まれているように見える鉢ですが、商品として成立するように株を並べる「組み」の作業には熟練の技術が必要。絶対真似できない。
【補強】
この作業がお客様に届いたときのクオリティを支える
胡蝶蘭が鉢の中で暴れないように、発泡スチロールで株の間の隙間を埋める作業。ここで手を抜くと配送中に胡蝶蘭が乱れてしまうため、このセクションの責任は重大です。作業を行っていた方にお話を伺うと「本当に忙しいですね!」とのこと。確かにちょっとお疲れの様子でしたが「でもキレイなお花に癒されます!」とヒーリング効果も同時に受けているそうです。一石二鳥。
【ビニールかけ】
今はビニールですが、以前は和紙で包んでいたそう
花はキレイに並んでいるとはいえ、配送中に段ボールの中で暴れてしまうこともしばしば。摩擦や衝撃で花が落ちてしまわないようにビニールでガードします。熟練の技で次々とビニールを懸けていたのはベテラン作業員の方。次々やってくる胡蝶蘭の鉢を前に「忙しくて厳しいよね。体力的に」と少々お疲れ気味。しかし「自分の手で商品が完成していくのは楽しいよね。どこも大変だけどがんばるよ」と元気にコメントしながらビニール掛けを続けておられました。タフネス。
【ラッピング】
ひとつひとつ微調整をしながらラッピング。簡単に見えて難しい!
無骨な鉢がそのまま見えないよう、キレイなラッピングを施すのも重要なお仕事です。決められた手順でのルーチン作業かと思いきや「鉢や花のボリュームがそれぞれ違うので、一個一個微妙に変えているんですよ」とのこと。カラフルなラッピングのロールを器用に回し、それぞれの鉢にジャストフィットする飾りを施すのもプロの技です。
このロールが……
ちなみに1本のロールで包める鉢の数は9個ほどだそう。
こうなる。奥にも芯の束が山盛りに。
無造作に段ボールに詰め込まれたロールの数が、ラッピング担当の悲鳴を物語っているようです。
【立て札を立てる】
名前を間違えないように伝票を確認しながらひとつずつセット
胡蝶蘭と言えばお祝い!お祝いと言えば立て札!という連想が成立するほど、立て札は重要なパーツ。誰が誰に送ったものかを明確に示す立て札は、胡蝶蘭という商品の中でも最もデリケートな部品といっても過言ではありません。
立て札を立てるためのワイヤーを設置し、お名前がキレイに見えるように立て札を立てる一連の作業も、鉢ごとに細かい調整が必要。「まだまだわかんないことだらけですよ」と謙遜しながらも流れるように組み立てる姿に、長い年月で培われてきた技術の高さを感じます。
【梱包して配送】
包装された胡蝶蘭は段ボールに詰められトラックへ
鉢植えにラッピングとビニールかけが施され立て札が立った胡蝶蘭は、最後に段ボールで梱包されて配送のトラックへと積み込まれていきます。
男手が総出でトラックへ積み込み!
黒臼常務いわく東京都外への配送はヤマト運輸・佐川急便を利用。繁忙期中は1日3~4回はトラック一杯に詰め込んだ胡蝶蘭を送り出すそうです。
「生花」の注意書きのある段ボールが次々と積み重ねられていく
「最高級胡蝶蘭」の文字が緊張感を高める……?
東京都内やさいたま市内など、近隣地域は自社配送。こちらも次々とコンテナに胡蝶蘭を詰め込み、いっぱいになったトラックから発車していきます。
自社便のコンテナいっぱいに詰め込まれた胡蝶蘭。このトラックだけで104個!
「今日はあと何便かな……」少し遠くを見つめながらつぶやく黒臼常務の姿が印象的です。
戦いは終わりを告げる。最終便を見送って
辺りはすっかり暗くなり、ショップはシャッターを閉める
連日連夜の発送作業もいよいよ佳境を迎える夜20時。社長の計らいで用意されたというお弁当を受け取りに社員・パートの皆さんが事務所を訪れます。
最終日のお弁当はステーキ丼!
元気な時には「肉だぜえ!」と喜びの声を出しそうなところだが、社員・パートさんは疲れもピーク!今日ばかりはうつろな目のまま、無言で受け取っていきます。
部活の後に1日働いてこの笑顔!
そんな中で勢いよく笑顔で弁当をかき込むのが高校生アルバイト君たちです。従業員の方の息子さんを中心に、同じ高校のサッカー部の仲間で短期バイトに来たという彼ら。午前中に部活で汗を流した後、大きな荷台を引きながら大量の胡蝶蘭を移動させる業務を夜まで続けるという若さを見せてくれました。うらやましい。
黒臼洋蘭園でのバイトは「いろいろな年代の人と一緒に働けて楽しいです」とのこと。一日体を動かし続けるハードな仕事にも「やりがいがありますね!あと弁当が美味しいです!」と元気いっぱいの笑顔を見せてくれました。うらやましい。
1日の最後に出発する胡蝶蘭が描かれたトラック。お疲れ様でした!
21時頃に最後の自社便のトラックを見送り、今年最大の山場を乗り越えた黒臼洋蘭園。翌日に引き継いだわずかな残務はありましたが、明日からは通常の業務に戻ります。
胡蝶蘭の花言葉は「幸せが舞い込む」。白く咲き誇る胡蝶蘭を通じて幸せを届けるため、黒臼洋蘭園は今日も美しい花を育てています。一鉢部屋に置くだけで、明るくリッチな気持ちになれること請け合いです。「毎日の生活にちょっと彩りが足りないな」と感じる瞬間があるならば、ぜひ一度黒臼洋蘭園の胡蝶蘭を手に取って見てください。